新たなテニス環境開発  Development of new tennis environment
   国内初の車椅子テニス競技大会開催 ・・

 ”車椅子テニス” ”ハンディキャップテニス” を 経験したことがありますか!
機能障害のある人達やテニス関係者等に 「国内初の車椅子テニス大会」のご案内を進めたときのプリントの序文です。

テニスは ”生涯スポーツ” の代表格のひとつとして評されるスポーツですが、一般的に ”足ニス” との 別名が付くほどに、機敏なフットワークを必要とするため、身体機能や体力の不足する人達が練習やゲームに参加することはむずかしく、参加出来る機会を得られる人達は非常に少ない時代がありました。

国内各地に点在する数少ない車椅子テニス愛好者と、これから ”ハンディキャップテニス” ”車椅子テニス” を本格的に練習しようとされる人達を対象にして、テニストーナメントと特別練習会を企画・開催することをご案内した内容が下記のチラシ資料の中に記しています。 チラシに次のような言葉も記しています。

 
未知の相手と全力で競うテニスゲームは ”スポーツロマンの舞台” とも言えそうですが ・・
  ハンディキャップを忘れて、思い切り ゲームプレーを楽しんで下さい。
   
            チラシ資料全文


1984年5月25日〜26日 「国内初の車椅子テニス競技大会」 を開催しました。
チラシに書き込んだ各地に点在する車椅子テニス愛好者とは・・ 当時は、福岡から参加した松尾清美氏(※飯塚国際車いすテニス大会主催)とJHTF(※旧・ルプトプラン) が神奈川県リハビリテーションセンターと国立身体障害者リハビリテーションセンター、横浜市民公園コートで進めた各会場で練習参加した僅かな人達だけでした。

第1回大会に参加した人達は 34名、その中に 福岡、長野、静岡から各1名が参加、他の人達は神奈川、東京、埼玉からの参加です。
参加者の中には、当日の大会会場で初めてラケットを握った人達もおりました。 こうした人達はテニスは未経験者ですが、車椅子バスケットの選手が多く、大会開始前に競技規定として・・ 2パウンド後の打球まで有効として認められる競技方法で行う・・ との説明を受けただけで 競技参加した人達もおりました。

こうした車椅子テニスを経験した人達の少なかった当時の状況の中で、なぜ大会を企画・開催したのか? との疑問も生じるところですが・・ 
「身障者が大会を希望している」 との言葉を信じ、企画に踏み切りました。 しかし、注目を集める車椅子テニス大会の国内初の開催を進めたいという意識が存在していたことが、神奈川で国内初の大会を企画した理由です。 しかし、当時は 福岡の関係者が国内初の大会を検討していたことを後日、知ることになりました。


新たなテニス環境開発を通じ、テニス界と身障者スポーツ界の陰の部分に接することがあり 関係施設や団体所属の人物が 心ない言動を起こしました。 
NPO事業は、その資金づくりに大きな負担があると同時に、こうした問題の壁を乗り越える負担もありました。 
もし、当時 立ち止まったり、活動を打ち切っていれば、近年の車椅子テニス環境づくりも、各地大会へと続く各種の取り組みも存在していません。


NPO事業としての新しい国内の車椅子テニス環境づくり・・ 当時、誰も取り組むことのなかった事業であり、簡単に実現出来るものではありませんでした。 
そうした中で、大会の企画・開催にまで結びつけられたことは、国内の車椅子テニス環境が育まれていく歴史の一歩を記すことにつながりました。
NPO団体として厳しい内容に振り回された歴史でもありましたが、この大会を契機にして、国内の車椅子テニスに対する関心が高まるプラス面もありました。

   


第2回大会は、1985年9月7日〜8日に開催しました。 第1回開催の春(5月)から秋に変更したのは、翌1985年に福岡県飯塚市で 「飯塚国際車いすテニス大会」 が開催されるとの情報を得て、同じ時期の開催は、各地域から参加する選手に費用面や体力面に負担がかかることを避けようとの考えで決定しました。
国内で開催する車椅子テニス大会として後発の飯塚市の大会ですが、国際車椅子テニス連盟の年間スケジュールから決定されたとのことで、日程調整がむずかしい状況にあったものと思われます。

 
※当時の大会プログラムが僅かに保管してありました。 日本ハンディキャップテニス大会プログラム等と共に、国立国会図書館に納本しています。
 第1回大会プログラムは、資金の関係で製本されていないため、納本しておりません。 海外の特定方面と国内数方面にはその他資料を加えて寄贈しています。

初の車椅子テニス競技大会の企画には、先に紹介のワインカップテニストーナメント大会運営の5年間(12回実施)の経験を活かしました。
全国対象の大会としての基盤を築く上で、可能な限りに良き大会にするために、当日の天候が予測できないことから、日本テニス協会の普及委員長・近岡義一郎氏に協力を求めて、協会保有の国際大会などでも使用されていた室内特設用のネットセットを借用しました。

地方から参加される選手もおりますので、雨天で競技が中止にならないようにとの考えによるものでしたが、第1回大会は天候に恵まれ、室内用ネットセットは競技に使用せずに大会は無事完了しました。 当時、こうしたネットセットの設置には専門の力が必要で、シミズ舞台工芸スポーツ(株)の関係者には大変お世話になりました。 
30年近く前の大会企画ですが、改めて他の関係方面を含めまして、多くのボランティア各位には心から感謝申し上げます。


第1回、2回、3回 ・・ と継続する中で、参加選手の技術は次第に向上し、随所に見事なプレーを展開するようになりました。
しかし、当時の参加選手が使用した車椅子はスポーツタイプではあっても、最新のテニス競技用車椅子とは違い、コート上の操作力や動きのレベルは高くありません。
人それぞれに体力や身体機能に合わせて、車輪のキャンバー角度などを調節した車椅子は 回転性能と安定性に優れていますが、オーダーメイドで発注する競技専用のものは、通常の車椅子と比べて高価でした。 そのため保有できる人達が少ない点は、近年も資金少ない人達は同じ状況に置かれているかと思います。

 

競技レース用の自動車や二輪車にも見られるように、使用する車の性能は運転技術と合わせて勝敗や順位の面で影響します。 
誰でも高価な車椅子を購入出来るわけではありません。 しかし、高いレベルの競技テニスを目指すためには、高性能の車椅子は必要です。

国内車椅子テニスの環境づくりに向けて一定の役割を担った上で、車椅子テニス関係団体とは別に、車椅子テニスのみにこだわらない様々な障害の内容に対応したハンディキャップテニスの普及発展に多くの取り組みを進めたNPO事業です。
近年、車椅子テニスには メダリストが生まれましたが、車椅子テニスに加えて 多くの人達が体力や運動センス、障害の有無などにこだわらずに、誰でもふれあうことの出来るテニス環境づくりを目指した目標は、残念ながら実現されていないのが実情です。

優れたアスリートを輩出する取り組みはスポーツ振興には必要ですが、スポーツは、数人のスタープレイヤーを生むことではなく、誰でも楽しめる内容を有するスポーツです。 スポーツの基本は、子供達の遊びから生まれたといっても過言ではありません。 
むずかしいルールを設けて参加する人達を制約するのは、スポーツが誕生した本来の成り立ちを忘れた人達や 知らない人達の行動と歴史によるものです。


国内初の大会は、様々なサポート活動と多くのボランティア協力で競技運営が支えられました。
会場内の移動も、雨で中断したコート上の水はけ作業や帰宅時のサポートも積極的に活動する方々の力で、毎回の大会は無事完了しました。

支援の団体、企業もいろいろなカタチで競技進行が円滑に進むように協力、黒タイヤをグレーのタイヤに交換する技術的なサポートも大事な協力のひとつです。
すべての紹介までには至りませんが、この大会を含めて各種のNPO事業には数多くのボランティア精神に満ちた方々、温かな支援協力がありました。


いろいろなカタチで支援して戴いた企業や様々な団体が当時の微力なNPO事業活動を支えました。 20年、30年を経過した現在、時代の流れで事業や活動を終息した方面もありますが、こうした温かな力が存在しなかったら、これまでの記録も・・今後に紹介します各種の取り組みも・・生まれませんでした。


第1回大会プログラム 第1回大会レポート

 この第1回大会プログラムはA4サイズの4ページ構成で作成しています。
 国内初となるこの大会企画は、数多くの温かな理解と協力支援の中で開催し、参加選手は 1都4県からの34名でした。
1985年に 全国都道府県と政令指定都市の知事、市長向け、この大会資料も含む ルプトプランレポート を スポーツ環境整備の要望書と合わせて送付しました
※ルプトプラン連絡協議会は、NPO事業として進めたハンディキャップテニス研究協会ならびにJHTFの最初の団体名称です


 第2回大会プログラムの表紙
 第2回大会は 広告ページも加えた40数ページの内容に製本したプログラムは、当時の一般テニス大会以上の品質と高く評価されました。
 資金の少ないNPO団体では手の届かない印刷、製本の費用でしたが、印刷会社代表者の 好意で、大会の趣旨目的とNPO団体の活動に理解を示された
 関係各社も協力して戴き、資材費など原価も割って支援して戴いたことで出来上がったプログラムです。 
 プログラムの抜粋内容
 第2回大会は、日本テニス協会専務理事の藤倉五郎氏並びにテニス協会役員の近岡義一郎氏を顧問として会場に迎えて開催しました。
 来賓として来場された当時の藤倉五郎氏は、松尾清美氏(福岡)のプレーを 熱心に見て その動きに感心しておりました。
 
この大会以降に開催された 「飯塚国際車いすテニス大会」(1985年4月)など、国内の本格的な車椅子テニス競技は進展していきました。
1986年 「ニューミックステニストーナメント
(大阪)、1987年 「車いすテニスジャパンカップ イン 蓼科」の開催など 新しい車椅子テニス大会が 次々と各地で企画されるようになりました。